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百文は一見にしかず~されどペンは強し

 正解は「百聞は一見にしかず」ですが、「百文は一見にしかず」でもその意は十分通じると思います。目で見る視覚的把握が人間の物事の理解に圧倒的影響力を持つということです。

 更に言えば百文<百聞<一見という関係が成り立ちそうです。映像で見せられれば圧倒的インパクトがありすぐにわかるが、耳でいくら聴いても実感が湧かず、いくら文章に綴ってもなかなか通じない。百文はそもそも読む気がしないし、特に今時漢字が多いと読めないというのが実態だと思います。

 一見とは言い換えれば視覚的映像のことで、昭和の時代にテレビや映画が人気を博して以来、映像優位の時代は今尚続いています。

 小説<漫画<動画/映画/アニメという関係も成り立つと思います。小説は絵や映像になって初めて多くの人々に伝わり、成功として認められる時代です。

 ペンは剣よりも強しーーーこの格言は言論が統制された社会では通用しないですが、真っ当な社会では今も生きていると思います。されどペンは映像よりも弱し。百文は一見にしかず、文章は映像には敵いません。それは視覚への依存が大きい人間の本質的な特性なのでしょう。ちなみにコンピューターは画像情報よりも、文字や数字の情報の方が得意です。

 イラストや映像がレアものだった時代、本は今よりも重要でした。本が重要だった時代、人々は画像情報に飢えていました。写真入りの本はプレミアムでしたし、本にはつきものの表紙絵が、極めて重要な画像情報でした。読者は本の内容とともに表紙絵を愛しました。

 でも今は画像・映像が氾濫している時代です。写真やイラストには消費者の目が慣れて、驚きや愛着の度合いは逓減しています。その結果、表紙絵の重要性は相対的に小さくなり、本の中身と表紙絵の力関係からすると、読者は表紙絵には騙されなくなり、中身を評価するようになってきているのではないでしょうか。

 それは映像の時代の中で、文章/ストーリーのささやかな反撃であると言えるかも知れません。

 それでもペンでは映像に勝てないという事実が覆るわけではありません。ではなぜペンで戦うのでしょうか。なぜ文章に固執するのでしょうか。

 それはペンが、即ち文章というものが、思念・思考を表現する一義的なツールに他ならないからだと思います。映像の前に脚本があるのです。脚本は映像の出来上がりまで見通して書かれます。そこにクリエーションの源泉があります。

 小説は読者の脳裏に浮かぶ映像や心の動きの脚本です。小説には人の脳内に映像を投影する力があるのです。その脳内の映像を見た時、読者は小説から離れられなくなります。なぜならその映像は、映画などで見せられる受動的映像ではなく、読者自身のイマジネーションが脳内に作り出す主体的映像だからです。映画の観客が強制的に受信させられる画像とは違う、自らの心が生み出すクリエーションだからです。

 SFXやコンピューターグラフィックスが、人々を驚愕させた時代も徐々に過ぎつつあると思います。立体化したり音響と組み合わせてエスカレートさせても、映像音響技術だけで見る者を唸らせる努力には限界があります。精妙を極めるアニメの作画技術にも同じことが言えると思います。視覚的刺激に脳が慣れて不感症になると、人々の関心はむしろ映像や音響の背景にあるもの、本来伝えられるべき考えやストーリーに向かうのではないでしょうか。

 

ペンで文章を書こうとしている人々は氾濫する映像の前に圧倒されていることと思います。でも絶望する必要はありません。人の心を動かすものは究極的には映像ではなく、その背後にある思念思考です。そして思念思考を伝達する手段としては磨かれた文章に及ぶものはありません。読者のイマジネーションをトリガーできる限り、文章に外生的映像は不要であす。読者の心眼は視覚に優り、内生的映像を自ずからクリエイトするからです。

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